節句について
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(08/05/05)
浜松市連尺町・寿月すみたや

お正月


桃のお節句



端午の節句

和雑貨
女の子に羽子板・
まり飾り。
男の子に破魔弓。
2009年度のお正月
飾は2008年10月よ
り開催の予定です。
2008年度の雛人形
銘品展は終了させて
いただきました。2009
年度は2008年10月よ
り開催の予定です。

色々な名将兜を
紹介しています。

2008年度の五月人形
銘品展は終了させて
頂きました。2009年度
は2009年3月より開催
の予定です。
オリジナルつるしびな
飾り。
ちりめん細工、
静岡かるたをご紹介
しています。

それぞれのお飾り(お雛さま・五月人形)についての説明があります。クリックしてみてね。

<五節句のお話>
江戸時代に定められた五つの式日を節句と呼びます。
一月七日 七草の節句 (人日)
三月三日 の節句 (上巳)
五月五日 菖蒲の節句 (端午)
七月七日 七夕の節句 (星祭り)
九月九日 の節句 (重陽)
人形関連のページ紹介<リンク>

*七草の節句
・1/7の七草かゆ−−7草とは7星を表わし、49回包丁で切るのは、7曜+9曜+5曜+28宿で49ということで、延命息災の効があるとされたようです。

七草粥の日として知られる正月のお節句
人日とは、文字通り "人の日" の意味。中国は前漢の時代、7日の人の日には邪気を祓うために、七草の入った粥を食べ、一年の無事を祈ったのだともいわれています。
七草粥に入れるのは、春の七草と呼ばれている野草です。初春の野から摘んできた野草の生命力を食して、邪気をはらうということでしょうか。古来、宮中や神社でもこの日七種の野草を摘む行事を "若菜摘み" といいます。
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*桃の節句
・雛祭り−−3月の巳の日は、巳の日の祓という禊ぎの儀式があり、桃の節句となったようです。
上巳の節句のはじまりは?

もともと「上巳」とは、陰暦3月の最初の巳(み)の日の事を指します。中国では川のほとりに男女が集まり、災厄を祓う「上巳の祓い」という行事がおこなわれていました。文人は川の上流から盃を流して、自分のところに流れ着くまでに詩を作るという曲水の宴を催したのです。この上巳の祓いは、魏の時代には3月3日におこなわれるようになり、やがて日本でもこの日に曲水の宴を催すことになったということです。

日本では、古来、巳の日の祓いとして草や紙で「ひとがた」という人の形をつくり、災いを払うために川や海に流していました。やがて中世になると人形が現れ、平安時代宮中では「ひいな遊び」というお人形遊びが盛んになりました。この「ひとがた」と「ひいな遊び」が自然に結びつき、今のひな祭りになったといわれます。

ひな祭りの移りかわり

「ひとがた」でけがれを祓う上巳の節句が、現在のような女の子のおまつりになったのは、近年になってからです。

室町時代の末頃から始まった3月3日のひな祭りは、戦国の世を経て平和が訪れた江戸時代に華麗な女の子のための行事となっていきます。寛永六年(1629)京都の御所で盛大なひな祭りがおこなわれたのをきっかけに、幕府や大奥でもひな祭りをおこなうようにり、やがて武士階級から町人へ、江戸から地方へと広まってゆきました。

江戸時代の中ごろになると、女の子の誕生を祝って初節句にひな人形を飾る風習も生まれ、豪華なものも作られるようになってきました。華美になりすぎるひな人形をいましめる幕府のおふれも再三にわたって出されるほどでした。

明治時代になって、旧来の節句行事を廃止して、新しい祝祭日が設けられました。しかし女の子が健やかに、そして可愛らしく育つように、病気や事故なく幸福な人生を過ごせるようにとの願いが込められたひな祭りの行事は連綿と今に伝わっているのです。
それぞれの節句は、宗教行事として、地域のおまつりとして、また子供たちの成長を祝う祝日として、様々な形で私たちの暮らしの中にいきづいていることがおわかりでしょう。

これらは古来、宮中の行事であったり、中国から伝わった伝説であったりしたものです。それが長い歴史を経るうちに、地域の暮らしや風土にあったものへと姿を変えながら、現代の私たちに季節感を伝えてくれたり、暮らしのワンシーンをなごやかなものにしてくれたりするのです。

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*端午の節句

・端午の節句−−菖蒲とちまきは、中国道教の疫病よけのシンボルだそうです。
端午(たんご)の節句
奈良時代から続く古い行事です。

端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。

そのころの日本では季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたようです。
古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(しょうぶ=武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。

やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。

このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。やがてこの風習は武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まっていきます。はじめは、玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。

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*七夕の節句
・七夕−−短冊をつけた笹を燃やすのは、道教の儀式にちなんだものらしいようです。

七夕の由来は?

七夕といえば、竹笹の枝に色とりどりに飾られる、願いをこめた短冊が思い浮かびます。また、牽牛と織女が年に一度逢瀬をはたす物語を誰もが知っているでしょう。7月7日(旧暦も含む)には、日本の各地でさまざまなお祭りや行事がおこなわれます。

天の川をはさんできらめく牽牛星・織女星の物語。いまから2000年前にはすでに中国で成立していた伝説だといわれています。機織りに励んだ天上の織女にちなんで、星に技芸の上達を祈る「乞巧奠(きこうでん)」という宮中行事が生まれ、日本へと伝わりました。

こうして7月7日の行事である七夕は、日本では奈良時代に宮中の行事としてとりおこなわれるようになりました。もっとも、乞巧奠の伝来以前の日本にも、7月7日にけがれをはらう行事があったといわれています。古事記に記された、天から降り立つ神のために美しい衣を織る棚機女(たなばたつめ)の伝説も、中国の織女の伝説と重なるものがあったはずです。

江戸時代になると、七夕の行事は民間にも広がります。笹竹に短冊をかざるスタイルもこのころ定着したようです。

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*菊の節句
・9/9の重陽の節句−−陽の数9が重なり縁起がよい日。陰陽道に詳しい天武天皇が菊の宴をもよおし、慣例になったらしいとのこと。

9月9日を重陽の節句というわけは?

重陽の節句の起源は、ほかの節句と同様古来中国にさかのぼることができます。中国では、奇数は縁起のよい陽の数とされ、一番大きな陽の数である九が重なる9月9日を、「重陽」として節句のひとつとしてきました。

中国ではこの日、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)を袋に入れて丘や山に登ったり、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習がありました。これが日本に伝わり、平安時代には「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」として宮中の行事となり、江戸時代には武家の祝日に。
その後明治時代までは庶民のあいだでもさまざまな行事が行われていたといいますが、残念ながら今では私たちの日常生活とは縁遠くなってしまいました。

旧暦の9月9日というと現在では10月にあたり、ちょうど田畑の収穫も行われる頃、農山村や庶民の間では栗の節句とも呼ばれて栗ご飯などで節句を祝ったということです。
さかんに行われていた重陽の節句が、現代に引き継がれていないのは、旧暦から新暦にこよみが移り、まだ菊が盛んに咲く時期ではなくなってしまったことが大きいのかもしれません。

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これらの詳しい説明は、ご紹介するページに詳しく掲載されています。どうぞご覧ください。
私も、参考にさせていただいきました。有り難うございました。
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